5歳から6歳

目次

5歳~6歳パートⅠ 大人を困らせる

活動範囲が広がり、多くの人との触れ合いが増えた5歳過ぎの子どもは、他人との会話に大きな成長が見られます。知識も豊富になり理にかなった言い方は、私たち大人をびっくりさせます。と同時に何か気に入らないことがあったり、自分の思い通りにならない時の大人に対する憎まれ口も相当なものです。
 それまでは何をしてもあどけなさが伴い可愛いかった子どもですが、5歳を過ぎた子どもの憎まれ口にはその何とも言えない憎らしい仕草が加わり「正直親のほうが感情的になってしまいます」とおっしゃるお母さんも少なくありません。「お友だちから悪いことばを覚えたらしい」と思われ、お友だちとのつきあいを制限してしまうお母さんもいる位ですから、この子どもの変貌ぶりは大人のほうで相当覚悟していないと、子どもに振り回されることになります。

 特にこの年齢でお兄ちゃんお姉ちゃんになったお子さんは、ただでさえお母さんとのスキンシップが少なくなった上に、お母さんが下のお子さんにかかる時間が多くなって、声をかけられるとすると禁止事項やいたずらを叱られる事ばかりです。お母さんや大人の人に褒められようと健気にお手伝いをして大人の機嫌を伺う子どもも中にはいますが、この年齢の大半の子どもは大人を困らせることの連続で、自分の存在をアピールしている子どもの姿が目立ちます。

 年中クラスになったばかりの4~5月良く見かける光景として、クラスの中では月齢の高い子どもが、活動の節目で廊下などに寝転んで、担当保育士を困らせている姿があります。身体も大きく、どんな事でもはっきり話せるお子さんがひとたび寝転んでしまうと、話し合うだけではなかなか解決できません。子どもの心の中の「もやもや」はなかなかすっきりとした形で表現することができないのです。このような子どもの対応に、私は「赤ちゃん抱っこ」を奨励しています。当然大きな身体を抱き上げることは難しいので、椅子に座って横抱きにします。そして「よしよし、甘えたいのね~」等の声かけと共に、頭などを撫でて落ち着いたら、「あと5回抱っこね」と数を数えて、きっぱりとおろすことにしています。言葉や理屈では自分の気持ちを充分に表現できない子どものケアにスキンシップが大きな年齢になったお子さんにこそ有効なことが分かるでしょう。5歳前後の子どもがやんちゃを働き大人を困らせる理由は、「もっと私を見て!私をかまって!」と言いたいからです。いたずらや悪い事をしてしまった子どもを叱りつけるのではなく、抱き取って落ち着かせてから気持ちを聞いて、悪かったところを話し合いましょう。そして「こら~こんな事をしたらくすぐっちゃうぞ~」等の遊びに変えてしまうのも、一つの方法かも知れません。

 この年齢ですでに下の弟が生まれていて、ずっと「おりこう」でいたある女の子がいました。女の子はとても利発で、毎日男の子と遊ぶ活発な子どもでした。女の子はグループの男の子に対して結構乱暴なことばでケンカをするようになっていて、グループでは、女の子の物言いに怒って、男の子がたたいたり顔をひっかいたり等のケンカも絶えなくなりました。女の子は、お母さんからは「暴力は絶対に許しません!!」と注意を受けていましたが、子ども同士のケンカはエスカレートしていました。一年位経った頃、女の子は、「○ちゃんをたたけ!」「○ちゃんものを捨てろ!」等の指令を出す形で、自分は直接手を下さない方法を考え出し、いわゆる「いじめ」のようなことが始まりました。女の子はお母さんから禁止されている暴力を直接振るうことはしませんでしたが、女の子なりの反抗心・闘争心をこんな形に表したのです。

 その後女の子に言われてお友達をたたいたり物を隠したりした男の子のお母さん同士に集ってもらい、「子どもたちを強く叱らないで」と言う約束のもと、いけなかったことはきちんと説明してもらう事にました。担当の連絡帳で同じことをお願いして、女の子のお母さんの協力も得たので、おそらくお子さんとお母さん方との話し合いがあったのでしょう。大人たちが本気で心配してくれたのが嬉しかったのか、その後の子どもたちの表情からとがったものが消え、この年齢らしいやんちゃな顔に戻り、ケンカも大きな声で堂々とするようになりました。子どもたちも自分達のしていた事をひそかに悪びれていたに違いありません。悪い事をしていると感じながらも、私たち大人をふり向かせたくて、いたずらがエスカレートしてしまったのです。

 この小事件は大人の話し合いがあった次の週にはまるで何もなかったように収まり、平穏な日々に戻りました。この子どもたちが卒園する時には、ほどんど他の子どもたちと変わらず集団活動に馴染み、活発に日々を過ごしていました。この小事件を思い出すたびに考えることは、この年齢のいわゆる子ども達の「悪態」には必ず何らかの理由があるということ、そして大人にはそれを適切にキャッチする責任がある、ということです。大人が子どもの気持ちに沿って考えてあげないと、子どものネガティブな表現には拍車がかかる一方でしょう。この年齢で、今までとは違ったレベルで「悪い事」をするようになった子どもを「理解できない」と突き放したり、「悪い子」と決めつけるのではなく、体を張って必死に「表現」しようとする子どもの気持ちを、大人が正面から受け止めてあげてはじめて、子どもの感情的成長が見られるのです。

 子ども同士のケンカは大人のそれとは全く違って、むしろ子どもが様々な感情の葛藤をコントロールするための大切な訓練手段でもあるので、ただ「ケンカはだめ!」と禁止するのではなく、ケンカのルールを決めて見守りながら守らせるなど、子ども達の日常から目を離さぬことが、私たちたち大人の重要な役割りだと思っています。

5歳~6歳パートⅡ うそをつく

 5歳を過ぎた子どもは、何事も自分の考えで物事を進めたい思いで、大人からの干渉をひどく嫌います。私達大人はついつい子どもの行動を先取りして、「ご飯だからおもちゃをかたづけなさい」とか、トイレから出てきた子どもに「手を洗って!」とか声をかけてしまいます。「今やろうと思っていたのに!!」という子どもにしてみると、このような声かけは、とてもうっとうしいものでしょう。そんなとき、例えばトイレから出てきた姿を大人から見られていないと思うと、「手洗った?」と聞く大人に対し「洗ったよ」とすました顔で言うという話は、どのご家庭からも聞かれますし、「うちの子は嘘をつくようになった」と本気で悩まれる方ももいらっしゃいます。

 私たちが子どもの頃は、「うそは泥棒のはじまり」といわれて、大人からはひどく注意をされていた覚えがあります。この年齢の子どもの「うそ」を「ささやかなうちに何とかしたい」と思われる気持ちは分からなくありませんが、ひどく神経質に注意ばかりしても、あまり良い結果は得られません。 子どもがうそをつく場面や理由を理解し、本人の自発的意志に訴えない限り、うそ自体をやめさせることは難しいからです。

 例えば、私が5歳児クラスに絵本読みをする時に度々あることですが、絵本読みを始めた直後に、あわててトイレに駆け込む子どもがいます。始まる前だとこちらも待っていますが、始まってしまうと途中で止めるわけにいかず、そのまま続けます。早く絵本が見たいのでしょう、トイレを飛び出すように部屋に戻ってきてもとの席に座ろうとする子どもに、担当の保育士さんが「手洗った?」と聞きますと、すました顔で「洗ったよ」と答えます。すると担当さんは「あれっ、水道の音聞こえなかったよ」と、とがめる調子でもなく言います。「手洗わないとばい菌ちゃん大暴れするよ」保育士さんが言うと、子どもたちはちゃんと水道に戻り、手を洗ってきます。何回かこんなやり取りをしているうちに、子どもたちの手洗いは日常化していきます。子どもたちの感情を逆なでしなければ、「清潔のために手を洗う」という理屈が勝って、自ら行動できるようになるのです。

 他によく見かけるこの年齢の子どもたちの「うそばなし」に、「○ちゃんハワイに行くんだって」と、海外旅行の話題の際に出るものがあります。この年齢の子どもたちは決して「いいな~おれも行きたい」とはならず、「おれもいくんだ~」と張り合いの言葉が出てくる特徴があります。そして「おれグアムにいくんだ~」「カナダに行ったんだ~」と広がります。子どもたちの具体的なスケジュールを知らない私は、「本当?いいな~、私もカナダ行きたいな~」と言うと、とても得意そうな表情になりますが、話がそれ以上進まない場合は、子どもたちの願望だと気づきます。そこは知らんふりをして話を聞いていくと、ある子どもが「羽のついた車で行くんだ」と話しだし、「それで行くと川を渡るときには羽が広がって空を飛べるんだよ」と友達に大うけになり、その話が1週間も続いていました。「そんなばかな!」などと話を遮ったら、子どものプライドは丸つぶれになります。私はそのような話になったら、口をはさまないようにします。子ども自身これは「うそっこ」の話と分かっていて、多分大人が会話に入ることは望んでいないでしょう。それにしても子どもの想像力は、何かを渇望している時には、何と大きく羽ばたくことでしょう。

 けれど、楽しく子育て40の事例のように、お友だちの物をとってしまった場合などは、子どもとのやりとりだけで済ませられないこともあります。保育園でお友だちのものを持っていた子どもに「これはどうしたの?」と聞くと、「もらった」と答えました。皆で話し合ってみたところ、ある子が「取ってこい」と命令した事が分かったので、親御さんに集まって頂きました。そして「決して叱らず、人のものをとってしまうのはいけない事を話して欲しい」とお願いし、仲間でいた子ども全員に話していただくと、翌週にはピタッと子どもたちの行動は落ち着き、元気なもとの姿に変りました。忙しくしておられたお父さんお母さんが本気で子どもたちに向かい、子どもの話しを聞いたことにより、子どもはむしろ以前よりずっと楽しそうな表情に変りました。つまり子どもは、お友だちのものが欲しかった訳では決してなく、大人達の自分に対する本気の関心が確かめたかったということが分かります。

 子どもは、私たち大人から見て明らかに分かってしまう嘘をつくものです。民族学の柳田国男は「ウソと子ども」(ちくま日本文学全集・33巻所収)という文章で、作者自身がひょんなことからついてしまった嘘にも言及しつつ、子どものつく周囲にそれと分かる嘘を導入に、「うそ」という語義の変遷を、文献をたどって示しています。「うそつきは泥棒の始まり」と厳しく律する風潮はそれほど古くはなく、嘘の全てが悪いこととは考えられておらず、むしろ「人生を明るく面白くするためにはウソは欠くべからざるものとさえ考えているものが昔は多かった」と述べています。この文の最後の部分(364頁)は日頃子ども達と接する大人たち全てへのメッセージとして大いに参考になるので、引用させて頂きたいと思います。

 「子供がうっかりウソをついた場合、すぐに叱ることは有害である。そうかと言って信じた顔をするのもよくない。また興ざめた心持を示すのもどうかと思う。やはり自分の自然の感情のままに、存分に笑うのがよいかと考えられる。そうすると彼等は次第に人を楽しませる愉快を感じて、末々明るい元気のよい、また想像力の豊かな文章家になるかも知れぬからである。」 

 子どもが願望とプライド・想像力を駆使してつく「うそ」を、「ウソをついてはいけません」と頭ごなしに叱らず、そんな事を話す子どもの「心の奥深く」を理解し、その創意を認める心の余裕を持ちたいものですね。できれば勧善懲悪が面白く分かる昔話・絵本を、大人も一緒に楽しみながらたくさん読んであげることで、子どもが自ら養う道徳心の育ちをゆっくりと見守れたら、子育てはきっと楽しいものになる事でしょう。

5歳~6歳パートⅢ 子どもの家庭生活と集団生活

 年中児クラス後半から年長児クラス前半には、「第2の反抗期」と呼ぶ人がいる位の子育て困難期がやってきます。体力も知恵もついてきた分、思わぬ巧妙ないたずらや悪態を考え出し、思うようにいかないことがあると、びっくりするほどの体力でダダをこねて大人を困らせます。集団生活でのトラブルの連続に本気で悩まれる方もいる時期です。

 今までに見られなかったネガティブな思いの表現力に驚き、「集団生活の指導が甘い」と外側に原因探しをしたり、反対に「この子は悪い子!」と個人の性格に原因を求めてしまう方がおられるかもしれません。しかし、子どもを主体として考えるとそのどちらでもありません。この時期のネガティブな感情表現は、子どもが成長するために必要な試練や、大人に本気で向き合って欲しい気持ちの現われと考えて頂きたいのです。

 確かに集団生活はストレスのかかる場ではありますが、「群れる動物」である人間にとって、精神的葛藤経験は感情的な成長に欠かすことは出来ません。幼稚園や保育園、さらには学校での集団への「不適応」が大きく注目されてしまうのは、現代の子どもたちが葛藤感情の「訓練」をする場面が劇的に減っているからだと思います。都市部の少子化の傾向は加速化し、親世代の兄弟・姉妹数の減少により、子どもがリラックスして人間関係を学べる親族が激減しています。地域社会・家族関係から得られる様々な人間関係が欠落してしまっている環境の中で、日々通う園の集団生活が子どもにとってはとても重要な場所になっています。

 家庭内での葛藤経験が少ない子ども達が幼稚園・保育園の集団に属すると、保護者の方々には想像の範囲を超える子ども同士のトラブルは多くなります。自分の幼少期には体験したことのないトラブルを見聞きすると、「集団の質が悪いのではないか?」と疑いたくなっても当然かもしれません。しかしこれは、「少子化・核家族時代」の子どもにとっては必要不可欠なトラブルなのです。就学前の幼児集団は、子ども同士がぶつかり合いながらも、その後関係性が修復されて癒される場でなければなりません。そうした葛藤を経た後、子どもの心の中で「ぼくは仲間に好かれている、この集団に必要な人間」と思えることが何より必要なのです。幼稚園・保育園でのトラブルは「成長のための不可欠な学び」と捉えて、むしろ貴重な経験が出来る機会と、ポジティブに考えて頂きたいと思うのです。

 反対にこの時期のトラブルを「子どもが悪い子だから起こす」と決め付けることも、自分の子どもであれお友だちであれ、差し控えて頂きたいと思うのです。実際は、この時期にたくさんけんかをし、たくさん泣いた子ども程、卒園する頃にはチャーミングな優しいお兄さんお姉さんに成長する姿を数多く見てきました。特に男の子の保護者の方には、泣くことを「男らしくない」「弱い」などと捉える方もおられます。しかし子どもにとって泣くことは感情のバランスを取る大切な行為です。大河原美以先生は『ちゃんと泣ける子に育てよう』(河出書房新社)のなかで、「子どもが泣くのは心が風邪をひいた生理現象、思いっきり泣かせてあげよう」と、子どもが泣く体験の重要性を述べられています。むしろ大人が子どもの泣く姿を受け止められない事が問題であると指摘されています。大人は、子どものネガティブな感情をしっかりと受け止めてこそ、子どもの心に向き合うことになるのです。

 ではこの時期のトラブルの原因はどこにあるのでしょうか?この時期特有の反抗やトラブルは、子どもに自発性や自立心が育ってきたが故の、「もっと自分を信じて、色々やってみたい」という気持ちの表現だと考えるべきだと思います。もしこの時期に、お子さんの反抗心が強まっているなら、自分の思う通りに力を試したり、行動できていないサインと見て、「こうすべき」という大人の期待を過度に押し付けてはいないかを、考えて頂きたいのです。

 就学前になると、私たち大人(家庭であれ子どもが通う幼児集団であれ)は「社会の通念に適応させねば・子どもの将来を思って」と厳しい躾を求めるケースが見られます。加えて就学前に何とか学習習慣をつけたいといった考えで、学習塾に通い出すお子さんも少なくありません。「子ども対応が難しいと」感ずる場合、少しばかり一方的な大人の「良かれと思っての躾」がないか見直してみて欲しいのです。
 ※長谷川博先生は、多くの少年犯罪の加害者の心理分析から、「躾」が子どもの心の発達に影を落とすことを、『お母さんは躾をしないで』(草思社文庫)で書かれているので、参考にして下さい。

 幼児期には自分でできる、やろうとしている事への大人の手がけ・声かけはむしろ過干渉で、子どもは鬱陶しがりむっとして、大人の声かけを無視するようになります。子どもは主体性を発揮し活動したがりますが、そうすれば当然失敗もあり、友だちとの競い合いの中で悔しい思いもあります。その経験は子ども自身が成長するためには欠かせないことなのですが、現代の子どもにはこの経験が著しく減っています。

 すでに懐かしいニュアンスで語られる「昭和の子どもたち」が育った時代は隣近所のお付き合いがあり、私自身の子どもたちもお休みの日となればどこかの家に上り込んで遊んでいました。危ないことをしていて近所のおじいさんに親の私まで叱られた事もありました。大人にも子どもにも、近所の大人たちがそれぞれの場所で見ていてくれるという安心感があり、子どもは子ども同士で遊びの中で揉まれていました。その子どもたちが幼稚園・保育園にも通っていて、お友だちとのけんかや子ども自身の怪我も当然あった訳ですが、私達親はとても呑気に対処していました。

 こうした時代から、地域社会の大きな変化によって核家族の子育てのあらゆる事柄を家庭単位に任され、仕事に忙しい父親に代わって母親の孤軍奮闘が目立つ時代に変わってきました。当然母親も忙しく子ども達が日々何事もなく過して欲しいと願う気持ちは充分に分かります。しかし幼児期に大人しかった、ケンカひとつした事がなかった子どもの思春期での大きな反抗や引きこもりの事例・事件はあとを断ちません。

 この時期の子どもは体力的に爆発的な成長を見せます。一日中身体を動かしているのが健康な子どもの姿です。子どもが大人にいらいらし反抗的な表情や態度を示す原因は運動不足だからと、『元気が出る子育ての本 3~6歳能力を伸ばす個性を光らせる』(主婦の友社)の中で汐見稔幸先生が分かりやすく書かれています。お休みの日はお子さんが通っている園のお友だちと一緒に広い場所で、目一杯身体を動かして遊ばせてあげてください。その時約束できるお友だちを家に預かってでも、子ども同士遊ばせることが必要な時です。身体をたくさん動かし、親の元で安心しつつ子ども同士の葛藤を経験させることが必要です。幼稚園・保育園は様々な活動を準備するとしても、子どもたちの人間力を育てる為にはご家庭の生活の幅を広げ、家族同士の交流が子どもたちの豊かな人間力を育むことでしょう。

6歳~就学迄パートⅠ 入学の準備

 子どもの心の発達は個人差はあるものの、おおよそ一定の道すじを辿ります。服部祥子氏は「子どもが育つ道すじ」愛と英知の親子学(朱雀書房)の中で、乳幼児時期に大人やお友だちから与えられる様々な感情体験の重要さを論じていますが、しかるべき年令で得られなかった感情を、思春期や大人になって歪んだ形で取り戻そうとする姿を、多くの事例で示しています。

 例えば、甘えたい時に甘えられなかった、自己主張を妨げられた、何でも知りたくて自分で試したら、「いたずらした」と叱られてばかりいた等、子どもの心に傷となって残る経験は、いずれ大人になって閉じこもりや反抗という形で現れるといいます。

 ではその心の発達の一定の道すじは、どのように進むのでしょう。「くまのプーさん」の作者アラン・アレキサンダー・ミルンは自身の子ども(作中実名で登場するクリストファー・ロビン)の育ちを傍らで見つつ、子ども同士の実に無邪気なやりとりのこの童話を書いたと言われています。そして「六つになった」という詩の中で子どもの心の成長をとても分かり易く描いています。
歌詞
 この詩が端的に描いているように、どんな子どもも自我の意識と自己肯定感を確立していくことが、共通の発達の道筋と言えると思います。人間の子どもは、他の動物と比較してとても未熟な状態でこの世に生まれてきます。しかし生まれて6年も経つと、自分は他のお友達とは違っていて、自分の存在に大きな誇りを持つことさえ出来るように成長します。A・Aミルンが生きた100年以上も前のイギリスの田園風景の中で育つ子どもの姿と、現代の都会で育つ子どもとでは育つ環境が大きく異なりますが、実は子ども自身の心の発達にはそれ程大きな違いはないのです。

 私自身の子ども時代を思い起こしてみると、戦後の埼玉県の片田舎で、ほとんど子どもだけからなる集団の中で、野放図に遊んでいました。幼稚園・保育園とは縁のない生活によって、集団の中で管理され、評価される事にも無縁でした。それでも小学校入学を控えた春先の事、母が「もうすぐ小学生になるから鶏の餌やりをしなさい」と、餌の野菜を刻むために、本物の包丁を使う事を許可してくれました。「自分はもう一人前!」と有頂天になったことを思い出します。この自己有能感を、高齢者となった今でも鮮明に覚えています。時代が変わっても、子ども達が就学までに何を身につけておかなければならないかと問われれば、私はこの自己有能感、自分に誇りが持てる心を育てる事をあげます。それでは、ミルンの詩のような6歳になり、自分のことが誰よりも好きで希望に満ち溢れて小学校に入学していける子にするには、どのように幼児期を過ごせばよいのでしょうか。

 5歳という年齢の特徴をよく表した「クレヨンしんちゃん」というアニメがあります。しんちゃんは、A.Aミルンが詩のなかで、「五つのときは、なにからなにまで おもしろかった」を文字通り生きている子どもです。しんちゃんは人前でとてもやんちゃな姿を見せてはお父さん・お母さんを困らせつつ、本人は面白くてたまりません。しんちゃんのような大人の気を引くいたずらの根底には、子ども自身が「おもしろそうなこと」を発見し、そのことを突き詰めるなかで確かめる強い自主性があります。大人から見ると厄介ないたずらであっても、やんちゃな姿がたくさん見られるような幼年期を過ごし、それを大人から暖かな眼で見守られる幸せな5歳児時期を経て、いよいよ自分の存在に大きな自信を持つ6歳児時代が迎えられます。

 ただ子育ての中でとても厄介なこの時期に、親の仕事の悩み・家族の介護などで、日々の生活が非常に忙しくなってしまう事があります。あるいは、弟妹が生まれ両親の気持ちがそちらに移り「お兄ちゃん・お姉ちゃんでしょう」と厳しい口調での子どもへの要求が増えてしまうケースもあります。子どもの気持ちを思いやる余裕がなくなり、親の思い通りにならないと、ことごとく「なんて悪い子!」と子どもに対して感情をぶつけてしまうと、子どもはとても反抗的になっていきます。

 他にも小学校入学を意識して、行きたくない塾に通わせられているケースは、とても深刻な問題を孕んでいます。始まりは自分から「行きたい!」と言って通い出した習い事も、子どもにしてみると何らかの理由で行きたくなくなることは良くある事です。そんなとき、行きたくなくなった子どもの気持ちを理解しようとせず「自分から言い出したことでしょう」と叱るなら、子どもは嫌々塾通いをすることになります。

 自分の存在に大きな自信が待てるようになるには、他人と一つの基準比較・評価される塾通いは、大きなマイナスとなります。「お友だちが行ってるから自分も行きたい」と思った習い事や塾でも、やってみたら思っていたのとは違っていても、この年齢の子どもが予測出来なくても当然なのです。「自分で言い出したことに責任を取らせる」ことを重視する考え方もありますが、この年齢の子どもを「自分で言った」とがんじがらめに縛りつけるのは、間違っていると思います。小さい頃に大切なのは「大人から見た成果」ではなく、経験してみて本人が何を実感するかであり、親はこの過程に出来る限り寄り添うことが必要だと思います。大人から見たら「成果の点では無駄ばかり」に終わる経験でも、子どもが体験を通じ「自分に合う/合わない」「楽しい/楽しくない」基準を実感できるなら、大成功だと考えるべきなのです。何事も未経験な子どもにとっての自主性を育むとは、「言ったことをまっとうさせる」ことにあるのではなく、子ども自身が興味を持ち、自分が考え出した方法で取り組むことで、失敗も含めてさまざまな経験をしていく過程を尊重されることにあると考えます。興味を持った何かが知らず知らずに続く中で難しい技術を学んでいければ良いし、もし途中で飽きてしまっても、「これは合わない」という体験をしたと考えれば良いのです。

 塾通いに大きな価値づけをしてしまう大人にとっては、何やら子どもが熱中している事柄は取るに足りない事のように思えるかもしれません。しかし子どもが興味を持ち、何度失敗しても、自分の工夫で何かに取り組んでいる時間こそ、子ども自身が大きく成長できる素晴らしい時間なのです。小学校入学を意識して、学習に関する習い事に通わせている間に「べんきょうだいきらい!」と思う子どもが多く育ってしまうことは、残念でたまりません。入学を来春に控えた子どもに育てておかねばならない事は、「答え合わせ」で高い点を上げる子どもではなく、1日の生活の流れを出来るだけ自分の意志でもって賄えることです。朝は自分から目覚め、遊びたいお友だちの顔が思い浮ぶか?遊びたい遊びがあるか?など、子どもの意志が尊重され「自分のすることを大人の基準で一刀両断に評価されない」生活は、子どもに安心と充足感をもたらします。そして「この次はこうしてみよう」という子ども自身が考える力こそ、入学前の子どもに是非とも育てておきたいものなのです。

 もしお子さんが小学校入学を前に急に「クレヨンしんちゃん」のように困った姿を見せてきたら、それは子ども自身が1回は経験しておかなければならない通過儀礼と思って、本気で受け止めてあげて欲しいと思います。そして小学校入学前に自分から取り組む「思いっきりおもしろいこと」には、様々な課題がつきものです。自分の力で何とかしたいと思っても行き詰ってしまって、子どもの心がぐらぐら揺れる時もあるでしょう。そんな時にはやはり大人の助けが必要です。子どもにとっての自主性と試行錯誤が切り離せない事を私たち大人は分かっていてあげたいものです。

 子ども自身が考えた行動を大人も興味を持って見守った時、子どもは自分への自信を取戻し、びっくりする程に内面的な成長を見せてくれます。そしてこのような心の後退と前進は行ったり来たりしつつ、螺旋階段を上るように子どもは成長していきます。小学校入学を前に「思いっきり楽しい時間」を過ごさせつつ、生活面での自立を促すために子ども自身が選べる衣類入れ・道具入れ・遊具入れなどを準備し、子ども自身に整理させる等を工夫する事が、小学校入学準備の第一歩ではないでしょうか。

6歳~就学迄パートⅡ がまんする力を育てる

 年長時代も後半になると、親子ともども徐々に小学校生活をイメージする機会が増えてきます。小学校入学では、慣れ親しんだ保育園の仲間とも別々になり、活動も体験を中心に学ぶのではなく座学中心へと変化します。新1年生が教室に座っていられずクラス運営が困難な状況が、「小一プロブレム(problem=問題)」という社会問題として取り上げられるようになって久しく、保護者の方々も「我が子はうまくやれるだろうか?」と心配になることと思います。そこで、新たな集団生活に備えて、大人が意識して伸ばしていくべき「がまんする力」について考えたいと思います。「小一プロブレム」には、必ずしも子どもの側の問題ばかりとは言いきれない部分もあり、例えば汐見稔幸氏は、『本当は怖い小学一年生』(ポプラ新書)のなかで、教える側の問題(旧来の学びスタイルを続けている教育制度の問題)も指摘しておられます。教育改革は大いに待たれるところではありますが、私は現場を見てきた保育者として、子どもの育ちの側面からこの問題を考えてみたいと思います。

 元気で、ユニークな悪戯いっぱいだった5歳児時期を経て年長児クラスの子ども達には、所属する友だちのことや集団全体の流れを理解し、それに合わせる力が徐々に育ってきます。行事の主役の存在で活躍する中で、子ども達は葛藤や集団の流れに合わせようと多くのがまんを経験しますが、友だちと力を合わせ大きな行事を達成させて得た「前向きながまんの力」こそ、小学校以降の社会生活に大切な底力となります。同時に、担当の先生の魅力的なリーダーシップや友だちの秀でた部分への憧れを持ちつつ、自分のやりたい事・好きなことを積極的に見つけていく時期でもあります。

 この時期から、「言われたことに盲目に従うがまん」ではなく、自発的で意志的な「前向きながまん」の力をつけてやることが、大人の大切な課題だと思います。言われたことには従っても積極性が少ない子どもや、集団生活が苦手な子どもには、「集団活動の楽しさを実感して、みんなのために自分の感情をコントロールする力」を伸ばしていくことが課題です。「自分からがまんする力」が育つには、自分の欲求や気持ちを自ら表現し、どんなことでも子どもなりの達成感を味わった経験が必要です。

 近年、少子化・家庭の事情・地域事情の変化もあり、大人は無闇に「人に迷惑をかけないの!」と厳しい躾をしてしまいがちです。しかし、年長までにユニークな悪戯や大人への悪態を強く抑えられすぎた子ども達は、深い胸中の気持ちを表現できず、小学校以上の年齢まで反抗を引きずる事になってしまいます(「お母さんはしつけをしないで」長谷川博一、草思社文庫 楽しく子育て42 参照)。

 厳しすぎる躾のもとで育った子どもは、感情表現、特にネガティブな感情(怒り、悲しみなど)の表現を抑えてしまいがちです。しかし子どもは悲しみや怒りも含めて言葉で表現してはじめて、他人とのズレやぶつかり合いを解決する知恵がつきます。保育現場では発表会などの練習時に、緊張とストレスから子ども同士がぶつかりますが、子ども自身に自分の気持を言葉にできる表現力があればトラブルを乗り越える事ができるので、時間をかけて子ども達の気もちを表現させるよう心がけています。たとえ張り合いや競い合いが生じ、思いもよらぬ感情体験があっても、大人や仲間に理解されているという信頼関係があれば、前向きに乗り切ることができるのです。

 この年齢の子どもにとって、担当の先生やお友だちへの愛着と自分への愛着は、ほぼ同じ意味があるので、けんかをして怪我をしてしまっても、お友だちを一方的に非難することを大人は控えなければなりません。けんかのいきさつ等は本人が充分承知しているので、子どもから話して来る時には心を込めて耳を傾け、本人が忘れてしまった事柄や、話したくない事柄をしつこく聞き出さない配慮も必要です。子どもが自分の気持ちを表現するのが苦手だったら、焦らずに暖かい関心を向けて、待ちましょう。

 また表現が苦手な子どもには、積極的に体を動かして感情を表現する機会を多く作ってあげて下さい。テレビの幼児番組で魅力的な内容を選び親子でダンスを踊ってみたり、ダンス関係の教室に通わせると、お子さんの意外な才能を発見できるかもしれません。これからの小学校ではダンスが教科に入ってきますし、体を動かす事により、心がわくわく開放的になり、ポジティブな思考も育ちます。自然の少ない都会の子ども達には運動量の少なさを補う事にもなります。

 家族や活動を共にする友だちや先生が大好きで人のために頑張りたい、という自然な気持ちが集団の連帯意識につながりますが、「大好きなみんなのためにがんばりたい」という気持ちは、想像力の育ちと深く関係しています。テレビのアニメばかりでなく、良質の絵本(楽しく子育て41 うそをつく 参照)を楽しむ時間は、想像力の育ちにおいて大変重要ですので、時間のある限り一緒に、善悪や人間関係の葛藤を深く考えさせる良い内容の絵本を読む時間を取りたいものです。その積み重ねの結果、子どもはじぶん達の作品を見せたい・発表を観てもらいたい、大好きな人の為に何かをやり通したい、というイメージが描けるようになり、自分からがまんする力につながります。保育園でも子どもたちは、絵本の物語から複雑な状況に応じた表現を感じ取って、場に合った上手な表現をしてくれて、私達保育者をびっくりさせています。気持ちや状況を想像し考える力は、大人になって様々な事情や状況を予測し、関わり会う人々の個性を理解する大きな力となります。お金を払う「知育」や習い事に頼る前に、文字への興味や言葉の能力も高めてくれる絵本の力を侮らず、日々できることを一緒に楽しんで欲しいと思います。

 “前向きにがまんする力”は、自発性の育ちの結果のものであり、「信頼関係・想像力・表現力」の賜物です。もしお子さんの集団生活に不安を感じるなら、長い目でこれらのなかで足りない部分を意識して、自発的に楽しんで人と協力できる力を育てていって欲しいと思います。子どもの内面はまだまだ育ち直すことが出来るのです。いつからでも遅くはありません。子ども達がそれぞれの個性を輝かせ乍ら、多様な仲間と創造的に生きられる社会人を育てることが、私の子育ての大きな喜びでもあります。

6歳~就学迄パートⅢ 他人と支え合う子育て

 いよいよ保育園を卒園し、小学校入学の時期に向けて、各家庭で準備しておかなくてならないことについて書かれた本があります。「わが子が小学校に通うとき読む本」担任が教えてくれない生活術( 三浦真津美 PHP)。この本が発行されたのは18年前のことで、小学校の様子がだいぶ変ってはいるものの、要約すると入学前の子どもに必要なことは、生活習慣の自立とコミュニケーション能力と述べられています。学習に関しては事前に準備することは担任の先生と母親の見解はだいぶ違っているとも述べられていて、先生方はほとんど「ひらがなの読み書きはすぐに覚えるので、是非生活面での自立を!」といった意見が多いようです。もちろん私も同じ考えで、小学校入学までには是非とも自分のことは自分でできる子どもであって欲しいと思っています。

 それ以外に、小学校入学に関して、家庭内の問題として是非とも準備しておいて欲しいことについて考えたいと思います。それは、大人目線で子どもに与える学習準備ではなく、生活様式の変化に伴って大人こそが準備しなくてはならない心づもりに関するものです。

 保育園が長時間保育を行うようになり、私たちの法人では夕食付で夕刻8時15分迄の保育を行い、その利用家庭が年々増加しています。「保育園で預かってもらえて本当に安心」といった声は多く聞かれ、保育園が各ご家庭にお役に立っていることは嬉しい限りではありますが、小学校に入学すれば利用できない施設です。保育園に通うお子さんの大部分は学童クラブに入所しますが、運悪くクラブに入れなかったお子さんの場合、小学校入学と同時にお母さんが退職されたりと、保育園から学童保育施設へスムースに移行できていない例も多い現状は、残念に思えて仕方ありません。また学童に通う通わないに限らず、お母さんたちが「他人に迷惑をかけたくないから」とお子さんに鍵を持たせ、子どもに留守番をさせて何とか様々な用足しをこなしている家庭が実は大変多いのです。

 保育園や学童クラブのように、手続きをとり利用料を滞りなく支払って一消費者としてのルールを守って得られる保育サービスには、確かに人間関係の煩わしさは伴わないかもしれません。仕事と子育ての両立をそのご家庭のペースで完璧にこなそうとすると、親戚・近所・子どもの友達の家族との付き合いは煩わしく思えてくるかもしれません。しかし子どもの立場で考えるなら、それまで幼稚園・保育園でたくさんの友だちに囲まれて楽しく安心に過ごしていたのに、突然一人での留守番は子どもにとっての負担は大きすぎます。

 日々の遊びの中で大好きなお友だち、気の合うお友だちができて、幼稚園や保育園を卒園する頃には一日中でも特定のお友だちと遊び続けたいと思うようになります。そして「お友だちともっと遊びたい」といった欲求から「お友だちの家に遊びにいく」「お友だちを家によびたい」と、さっさと約束をしてしまうお子さんがいます。「あらあら今度からお母さんに聞いてからにしてね」と言いつつ、気さくにお友だちのお母さんに子どもを託せる方もいれば、「よそのお宅に迷惑をかけるから」と決して遊びに行くことを許さない方もおられます。お友だちを預けると自分の家でも預からなくてはならないので、「絶対にダメ!!」と許されないお子さんを見ていると本当に貴重な体験の機会を失ったな、と心から残念な気持ちになります。

 楽しく子育て38 お友だちを家に招こうで書きましたが、子育てを楽しくするコツは、とにかく子どものお友だちを沢山家に招くことだと思うのです。お友だちを預かってみると同じクラスのお友だちでも随分と成長や性格が違うもので大変勉強になり、特に一人っ子のご家庭は是非とも我が子がお友だちと遊ぶ姿を見て頂きたいと思います。何しろ子どもは無邪気なもので、「○○くんのママ~」と我が子とはまた違った甘え方をしてくれるのでお友だちの成長に付き合うことは本当に幸せなことですし、こんなことから育児の楽しさは開かれていくものです。

 預かる側がそのように幸せな事なのですから、預けることによって「相手に迷惑をかける」なんてとんでもありません。子どもを預かってもらって感謝し「ありがとう」と親が頭を下げる姿を見せ、「楽しかった?」とお友だちの家で過ごした時間を一緒に喜んであげられれば、子どもにスケールの大きい世界観が育ちます。もし何らかの迷惑をかけてしまったとしても「お互いさま!!」と言い合えるような子育てができたらどんなに楽しい事でしょう。何しろ子どもにとってお友だちは自分とまだまだ一体化している時期です。たくさんのお友だちとの付き合いを通し、お友だちの素敵なところを自分の中に取り込む大切な時期でもあるのです。

 地域社会が大きく変わり昔のように隣近所の付き合いもない都会生活の中で、親世代が自身の親兄弟を頼ろうとしなければ子育ての孤立化は子ども自身の社会性の育成を阻むものになりかねません。子どもが仲良くしているお友だちを家に招き、時には自分の子どもも預かって貰える関係づくりは、小学校入学前から是非習慣化して欲しいと思います。子どもが小学校入学する程大きく成長したとはいえ、小学校の低学年の間は特に夜などの留守番は子どもにとって大変負担が大きく、我慢が強いられるものです。「今晩預かってもらえる?」そんな風に気楽に頼める関係があれば、子どもは本当に楽しく、一人ぼっちで留守番をするのとは雲泥の差です。生活の変化に応じて幼児期の思い出が本当に楽しいもので彩られるよう、大人同士もっともっと他人に頼れる關係づくりを考えて欲しいと思います。

 「子育てコラム」は、この回にて一応終了とさせて頂きます。